あがり症は「あがる」という自然なことを過度に排除した結果


「あがる」ことはあなたの人生にとって邪魔者です。過度にあがって頭が真っ白になり挫折感を味わい続けるのは確かに苦しいです。私も長い間その苦しみを味わってきたので良くわかります。少し「あがる」ぐらいならガマンもできますが、頭が真っ白になるほどあがるのは「異常だ」、と何度思った事でしょう。

今ここにいる私は、もうあがり症で苦しんでいません。私はあがらないために、人の視線を平気で受け止めるために色々な事をしてきました。冬、毎朝冷たい水を体にかけて、引き締まった心と体をつくることに専念し、”あがる”ことに意識を向けない努力。登校前に冬の海に入り、一時的に心身に活を入れて”あがる”ことから気を反らしていました。まるで何かの修行をしているかのようでした。

空手部にも入り、あがり症の弱い自分を克服しようと一生懸命練習しました。それにも関わらず「あがる」自分が他の人からどう見られているか、ということが常に気になっていました。あがらない事を目的とした人生。冷静であれば可笑しな考え方ですが、当時は気づきません。

あがり症を克服するのに役立ったか

でも、それはあがり症を克服するのに役立ったか?と問われると、役には立たなかっただろうと答えるしかありません。確かに体は丈夫になったでしょうし、身体能力も上がったでしょう。しかし、あがる自分、弱い自分を強くしようとすればするほど、そのこだわりはその後長い間尾を引いてしまったのです。

治らずに治った

今はあがりませんかと問われれば、あがる時もあるし、あがらない時もある。治ったというより、過度に気にならなくなったのです。あがるとかあがらない事よりも気になる現実の目の前の問題が沢山見えてきたんですね。

あがり症には無縁だった人も、あがらなかったというのではなく、あがったけれど、そのことが大して気にならなかっただけです。そんな事よりも大事な現実の課題がたくさんあったからです。20年以上かけて、遅ればせながらやっとそういう事がわかりました。頭の理解ではなく現実の生活の中で自然にそうなっていったのです。

昔、苦しんでいた自分だってあがってる時ばかりではなく、あがらない場面もあったはずなんですね。そのことには一切目を向けず、常にあがる、緊張する自分を「あるべきじゃない」としていたと思います。あがる自分を受け入れられなかった。無性に捉われていたんでしょう。あがるという事が大きな自分の欠点だと思っていたのです。

あがらない人はどんな人?

もし仮に、全くあがら無い人がいたら、その人は、人前で緊張しない人、自分をさらけ出しても平気な人でしょう。果たしてそれで人の中で上手くやって行けるのでしょうか。人前であがるというのは、確かに自分に自信が無いからという面があります。しかし、一方で強い向上心、人に対して気を使えるという良い面もあるんです。全く上がらない人は、おそらく無遠慮な事をしても気づかず、人に厭われるかもしれません。

あがる人の正しい努力の方向

全くあがらない状態を作り出すには、色々な面で完璧で他の人よりも能力が高い必要があります。向上心があるからこそ、今の自分に劣等感を持ってもがいているのです。だからあがり症を治すには、自分の能力を高める方向で具体的な行動をするしかありません。

あがり症の人が考える間違いは、あがる事そのものを治そうとすることです。あがるというのは自然現象ですよね。それを人為的に操作しようとするから悪循環になるんです。あがる=緊張するという感情を人間の意志でコントロールはできないのです。何故あがるのか?自分がまだ劣っているという劣等感からです。

上がることは自然な事です。あがらないためには、しっかりと準備をしてより良いスピーチをすることです。それを積み重ねていけば実力がついて、”あがる”必要はなくなります。だから「あがるという感情を無くすため」に、「話し方教室」に通うというのは間違いなのです。

感情に捉われた行動は全て目的が間違っています。「話す技術を高める」ために「話し方教室」に通うこと、ただそれだけを目的にすればいいんです。

目的本位

この違いが分からなければあがり症の克服はまだ遠いんです。
目的本位という言葉があります。人前で話す時に、目的を「あがらずに話す」ことに置くと、自分の感情と争う事になります。感情は気にすればするほど波立ってきますし、意志でコントロールできるものではありません。目的本位とは「伝えたい事を伝える」ということですよね。

あがったとかあがらなかったとかはどうでも良いことです。「伝える」ということを目的に置けば、あがるとか、あがらないとかはどうでも良くなってきます。あがって平気なわけじゃないけれど、それに捉われないという境地です。